耳を澄ますと小鳥のさえずりや動物の鳴き声が聞こえる。
心地良く頬を撫でる風に乗って、草花の香りが漂う。
”・・・ラファエル・・・”
誰かが俺の名を呼ぶ。
もう少しこの風を感じながら軽い浮遊感を味わっていたい。
”ラファエル・・・”
繰り返し呼ばれる。
瞼はまだ重かったが、うっすらと目を開ける。
いつからここにいるのだろう。
どこかで見たことがあるようで懐かしい感覚もあるけど、それでいて初めて見る美しい風景。
ここはどこの森だろうか。
”ラファエル”
声のする方へ顔を向ける。
あぁ、そうだったな。
彼女の大好きな森だ。
自然の中で育った彼女は、木々のざわめきの聞こえる森が落ち着くと、よく言っていた。
寝転がる俺の隣に座る彼女は、春の木漏れ日のような柔らかい笑顔を向けてくれる。
二人で旅をして、よく森の中でこうやって静かな時間を過ごした。
君はいつも、俺に安らぎを与えてくれた。
『・・・フェリジア・・・。』
俺にとって、この世で一番大切な者の名を呼んだ。
俺の顔を覗き込む彼女の笑顔が、陽射しを浴びて一層に眩しく思えた。
彼女は可笑しそうに、くすくすと小さく笑う。
”やっと起きたの?”
いつの間にか眠っていたのか。
こんなに安らぐ時間は久しぶりだ。
もう一度この空間を味わいたくなり、俺は起き上がらずに再度目を閉じる。
でも、途端に言い表せないほどの恐怖感と不安感が押し寄せてくる。
思わず渋面になり、夢に落ちることを本能的に拒んだ。
”どうかしたの?”
彼女が俺の表情に気付いたのか、不思議そうに尋ねてきた。
『・・・夢を、見たんだ。』
とても辛く、苦しく、悲しい夢。
”どんな夢?”
彼女が夢の内容を尋ねてくる。
あまり思い出したくないものだ。
『・・・君が、いなくなる夢だ。』
ゆっくりと起き上がり隣に座る彼女を見る。
叡智を宿す瞳は深く、吸い込まれそうになる。
いつもは表情豊かな彼女が、今は上位種としての神々しさを纏って俺の言葉を聞いている。
『君が、魔物に身体と心を取り込まれ・・・いや、飲み込まれるんだ。』
そうだ。
とても恐ろしい、夢。
彼女はじっと俺の話に耳を傾けている。
『俺は必死に助けようとした。でも、どうにもならないんだ。君を助けたくて、取り戻したくて・・・また、同じ道を歩きたくて・・・。』
辛い。
苦しい。
ひとつひとつ思い出すたびに胸の奥が鈍く痛む。
知らず、俺は俯き拳を握りしめていた。
悲しくて。
悔しくて。
”・・・それで、どうしたの?”
彼女が優しく囁く。
『・・・俺は、決意したんだ。一番選択したくない最悪の方法を、選んだ。・・・君との、約束を果たすために。この、十字の誓いに懸けて。』
胸に手を当てる。
そこには、二人で誓い合った十字架の聖痕が刻まれている。
命と魂を互いに捧げ、自分の最期は、相手の手によってのみ成されたいという願いを込めて。
でも、こんな選択をしたくはなかった。
永遠に近い時間を共に過ごしたかった。
ずっと君と、並んで歩いていきたかった。
それなのに・・・。
”・・・それで、あなたはちゃんと約束を果たしてくれたの・・・?”
静かに、彼女が俺に問う。
そうだ。
あの悪夢の続きはどうなった。
思い出そうとすると、いいようもない恐怖感に襲われる。
思い出すことを拒むように、背筋に悪寒が走り、吐き気すら催す。
俺は、約束を果たそうとした。
君への想いを証明するために。
それなのに、俺が最後に選択した行動は・・・。
『・・・いや、果たしていない・・・。果たせなかった・・・。君の姿が汚されるのを見たくなかった。だからこそ約束を果たそうとした。・・・でも。』
悪夢の続きが急激に浮上してくる。
それはあまりにも鮮明に繰り返し頭の中で再生される。
目を閉じても消えることがない。
直視することすら恐ろしい、悪夢。
『俺は約束を果たせなかった。そして、これ以上君の姿が汚されるのが辛くて・・・俺は、自らの死を、選んだんだ。』
顔を上げ、彼女を見る。
俺は今、どんな表情をしているだろうか。
きっと、子供のような、今にも泣き出しそうな表情をしているに違いない。
彼女は、そんな俺をまるで聖母のような笑顔で優しく見守ってくれている。
『君のいない世界なら、これ以上生きていく意味もないだろう、と。』
俺は、泣いていた。
いつの間にか溢れる涙を止めることができない。
俺は、君を助けることができなかった。
今、胸の中に渦巻く感情が複雑すぎてとても言葉にできない。
言葉が出ない。
代わりに漏れるのは、自分の意識とは裏腹に溢れる嗚咽。
両手で頭を抱え、後悔の念に押し潰されそうになる。
俺は、無力だ。
何もできなかった。
こんな俺など、消えてしまえばいい。
命も、存在すらも、その全てを。
深く暗い、真っ黒に染まる感情に飲み込まれていくのがわかる。
『あ・・・、あぁ!うああ!!』
嗚咽が悲鳴へ、そして絶叫へと変わっていく。
そうだ。
俺など、無力な俺など、いなくなればいい!
俺が、全てを放棄しようとした瞬間だった。
それまで静かに見守っていてくれた彼女が、小さくひとつ溜め息をつき、そっと俺を抱きしめてくれた。
優しく、まるで母親のように包み込んでくれる。
”ありがとう、ラファエル・・・”
耳元で囁かれる彼女の声。
その温もりを感じながら、少しずつ落ち着きが戻ってくる。
”どうかそんなに苦しまないで。貴方の想いは充分に伝わっている。
だから、貴方は生きて。”
まるで子守唄のように紡がれる彼女の声は、とても心地良い。
先刻までの黒い感情が嘘のように心が静まりかえる。
”私は貴方と共に歩いてきた時間にとても満足している。だから貴方のこともよくわかる。自らの死を選ぶ貴方の気持ちも。でもお願い、どうか貴方は生きて。”
静かに祈るような言葉に、俺はいつしか目を閉じ、彼女に心を委ねる。
まるで深い眠りに誘われるように、彼女の声が遠のいていく。
”大丈夫、私は貴方の中にちゃんと居るから。貴方なら大丈夫。私の分まで生きて。”
待ってくれ。
まだ話したいことがある。
伝えたいことがある。
意識すら遠のき、彼女の声がどこから聞こえてくるのかもわからなくなる。
”・・・さぁ、もう少し頑張って。貴方のことを待っている人達がいるでしょう?”
子供に諭すような、優しい声が俺を温かく包み込む。
あぁ、そうだ。
森で出会った、優しく勇敢なヒューマンと、相棒が待っている。
そうか。
俺は、あの悪夢と戦わなければならない。
そしてその悪夢を終わらせなければならない。
それこそが、今の俺の生きる意味なのだろう。
”見守っているから。きっとその悪夢に打ち勝つと信じているから。・・・少しだけ、私の勇気を分けてあげる。”
あぁ、わかったよ。
君のその心に、応えよう。
俺の全霊を込めて。
悪夢を、打ち破ってやる。
約束しよう。
俺の魂の全てを賭けて。
ありがとう、フェリジア・・・。
意識が途切れ、彼女の声が聞こえなくなる。
でも、最後に、
彼女の眩しい笑顔が、見えた気がした。
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